5月22日(日) ゴルフ 再開宣言!


 昨年の10月のクラブ競技で、右肘が痛いのを我慢しながらラウンドしていたら、寒くなってくるに従ってだんだんクラブが触れなくなってきて、冬の間は練習もやめていた。もちろん、ラウンドもしていない。
 5月、右肘の痛みはまだ取れないが、暖かくなって少し楽になったように思うので、練習を再開した。
 20数年ぶりに会った友人が、「一緒にしよう」と言って、17年間やらなかったというゴルフを再会する決意をし、用具一色を新調するとともに、僕と同じゴルフ場の会員権を買った。こりゃぁ僕としては、腕が千切れてもやるしきゃない。近日、ラウンドにも出かけるつもりだ。


  
5月21日(土) 復興に向けて
  
− 民主党内閣には、政権担当能力がない −


 「菅さん、あなたの存在こそが、日本の不安材料だ」という声が、あちらこちらから聞こえてくる。政権交代以来、民主党政権は、最大の政治課題であった景気回復や雇用問題に好転材料を見出すことができないばかりか、高らかに掲げた公約も何一つ実現できず、外交は日米間の信頼関係を大きく揺るがせたと思いきや、中国には小沢大訪問団やごり押しの近習平副主席の天皇陛下会談、そして尖閣土下座外交を繰り返す始末であった。自民党政権時代に根ざす問題も多いのだろうが、しかし、かけた国民の期待は大きかっただけに、鳩山・菅内閣の目も当てられない迷走振りには、失望を通り越してあきれ果てている。
 加えて3月11日の東北関東東岸大震災は、日本の存亡を問うような激震であった。震災の発生から2ヶ月を経た今、その復興に対する政治の努力はあまりにも稚拙であり、いまだに被災者のほとんどが、近隣の指定避難所やまた他府県の避難先に仮居住していて、先行きの見えない日々を送っている。
 さらに、初動態勢の失敗から、人災だとまで言われている「福島第一原発」の対応のまずさは、日本の原子力政策を根底から覆してしまったばかりでなく、東北地方の広い範囲を無人の荒野と化そうとしている。


 関東大震災の直後には「腐敗堕落した人間社会に対する天の戒め」という意味で用いられた「天譴論(てんけんろん)」が広く唱えられた。災害とは天が人に下した譴責であり、人々の贅沢や自由放縦な生き方に反省を促すのだと解釈されて、石原慎太郎は日本国民は反省しろと言ったと槍玉に挙げられ謝罪することになった。
 しかし、中国古典におけるもともとは儒教主義に基づく思想で、災害は「王道に背いた為政者に対する天の警告」というのが原義である。阪神大震災が村山政権のときであり、今回の東北関東大震災が菅政権のときであるというのが、何やら象徴的だが、この「天譴論」の説く意味はさらに、「天子の不徳によって人民が苦しむのだから、天子は以後、善政を敷くことによって天の意思に応えなければならない。それがその後の災害を予防できる唯一の道である」という人民救済の論理に繋がっていく。天の戒めを畏れて受け止め、為政者は徳を以って政治に当たり、人民はこころをひとつに合わせて復興に励まなければならないというのである。


 大震災以後の対応をみても、菅内閣の施策はお粗末に過ぎる。激震・津波に見舞われた東北東岸地域では、1ヶ月を過ぎてもまだ避難所生活者は万余を超え、その復興にはほとんど手がつけられていなかった。
 福島原発事故への取り組みは、4月10日、避難対象地区に入った日本文化チャンネルの調査隊の報告によると、「家族や家を失った人が、同じ被害を受けたほかの人のために黙々と片づけを手伝い、遺体捜索に手を貸している。ここに政府がかかわった気配は毛ほどもなく、言い知れぬ怒りと喪失感を覚えた。」「福島第一原発正門前では警備員が近づいてきて「引き返してください」と声をかけてきた。この警備の甘さ…、武装したテロ集団に占拠され、『要求を呑まなければ原発を爆破し汚染を日本全国に広げるぞ』と脅迫されたらどうするのか」と書いている。これが、復興を指揮しなければならない政府の、あるべき姿か!
 福島原発事故への対応は、遺憾ながら「菅政権を信用するな!」に尽きる。東電は3月13日には、福島第一原発の炉心の損傷度合いが1号炉70%、2号炉30%、3号炉25%であることを発表した。このことは炉内の放射性物質が、圧力容器→格納容器からは損口を通じて環境中に放出された可能性を示唆している。ところが、政府・原子力安全保安院は、なぜか『損傷は3%程度』と発表し続けていた。
 原発の安全は、経産省の外局に位置する「保安院」の管轄である。もともと原発の安全管理については、これをチェックする独立機関として「原子力委員会」と「原子力安全委員会」があるが、経産省はこれら2つの委員会から提言・管理の実権を奪い保安院の管轄としたが、当事者としての責任感の無さは目を覆うばかりである。
 例えば、昨年10月「原子力安全基盤機構」が、福島原発の2・3号機について、電源が全て失われる状態が3時間半続くと圧力容器が破損し、炉心の燃料棒も解ける。更に6時間50分後には、格納容器も高圧に耐え切れずに破損し、溶け出した放射能物質が外部へ漏れ出すという研究報告を出しているけれども、保安院は電源確保のための指導も対策も行ってはいない。責任は寺坂信昭保安院長、海江田万里経産大臣にあるのだが、対応振りを見ているとその自覚があるのかどうかはなはだ疑問だ。
 また、1979年のスマイリー島原発事故以来、多額の予算を投入して開発してきた、原発事故が起きたときに環境に放出される放射性物質の移動・分布の状況をリアルタイムに予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」は、事故発生後20分程度で結果を処理する能力を持っている。政府(気象庁)は、IAEAに対してはその予測結果を逐次報告し、それを受けて外国人の多くは80Km以上の遠隔地や国外へ避難したのだが、枝野官房長官が「20〜30キロ圏内の地元市町村に住民の自主避難の促進をお願い」を出したのは、実に原発事故から10日以上が過ぎた、3月23日になってからである。
 そして、原発事故が起こった直後にはアメリカ・フランスからの支援の申し出を断り、事故後2ヶ月近くもたってから、「実は炉心融溶(メルトダウン)していました」などと発表する愚かさである。今、やっと立ち上げた復興会議の五百旗頭真(いおきべまこと)議長は、「具体的な議論はこれからやります。諸賢の英知をまとめていくのが私の役割」と、まるで臨場感のない他人事のような所見を述べている始末だ。(五百旗頭は元防衛大学学長で、田母神論文問題では田母神空爆長の引責辞任を主張した人物である)。
 菅首相は、復興策を検討・諮問するために、20余の復興関係会議を作っている。それでいて救援物資も義捐金も医療も行政サービスも被災地には届いていないし、ガレキの後片付けすらもできていない的外れな対応を見ても、また、震災後の統一地方選で突きつけられた厳しい評価から判断しても、民主党と菅政権は国民に信頼されていないし、当事者能力を保持してはいなくて、このままこの政権を抱えていくことは、日本の将来に対して大きな不幸であると断じざるを得ない。


 菅首相は突然に浜岡原発の停止を要請するとの談話を発表したが、果たして日本がこの先、原発なくしてやっていけるだろうか。
 原発の恐怖体験のあとだから人々の感情論は理解するとしても、使い放題に使ってきた電力の上に築かれた社会を大きく後退させることは現実問題として不可能であろうし、選択肢としても適当とは思えない。大震災後の産業の復興にも、都市機能の再生にも、そのための人々の活動にも、基本的に電力は重要である。
 市民活動家菅直人の、代替の電力供給の提示も、日本の将来像に言及することもない、唐突な浜岡原発停止要請によって、この夏、全国的に電力供給量が不足する心配が大である。わが国ほどの工業生産量を持ち、(改善の余地はあるというものの)消費生活が膨れ上がっている国で、北欧や後進国のような自然発電体制をとることは難しい。太陽光や風力による発電は、将来においても10%が限度であろう。
 また、火力発電に大きくシフトするのならば、石油・石炭を燃料とするのだから、輸入依存体質はますます加速するし、地球温暖化に対するCO2の削減など夢のまた夢である。原発なくして、国際公約が実現すると思っているのだろうか。
 安定的に原料が確保でき、安価に生産できる原発は、日本の将来にとって避けて通ることのできないエネルギーである。これからの原発は、立地を無人島に移すとか、建設・運営を全面的な国の責任の下で行うこと、安全管理体制を千年に一度の大災害のときも千に一つの事故を起こさないように百万分の一の確率を考えての安全策を示すことが必要であろう。
 さらに、東日本と西日本とでHZ(ヘルツ)が異なるという不具合も修正して、日本全国に電力が自由に供給できる体制を整えなくてはならない。そのうえで、電力会社のあり方も、地域独占形態をなくして自由に競争させ、好きなところから電気を買える形にするべきだ。地域独占が、驕りや動脈硬化的な甘えた体質を生むことに留意するべきだろう。


 日本は、この大災害を契機として、新しい国家の建設を図っていくことを考えなければならないと思う。
 贅沢に慣れた消費者である国民の意識の低さと無責任さも、大いに反省しなければならないところである。その生き方を問い直すところから国民意識を変革していくことを、教育や文化を見つめなおすことから始めていかなくてはならない。
 そして、国家観や歴史観のない…、責任感も先見性もない…、この菅政権に、日本の明日を委ねることを一日も早く辞めさせねばならない。この大惨事のときに首相を代えろという議論は控えよう…という主張もあり、ローマのことわざに「川を渡る最中に馬を代えるな」とも言うが、川を渡れない駄馬だということが解ったら、代えずにいたら駄馬もろともに流されて溺死する。
 阪神大震災のとき、村山内閣は危機管理が出来なかった。今回の大震災に、菅内閣は当事者能力の欠如を露呈している。事業仕分け大臣の蓮舫は自衛官の増員要求を切り捨て、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ仙石由人元官房長官が官邸に戻り、自衛隊を憲法違反として救援活動を妨害した辻本清美が首相補佐官である。この政府の誤りは、結局のところ、理論ばかりを振り回して現実の世の中を見ようとしなかった旧社会党に、その要因があるといえるのだろう。


 今こそ、新たな国づくりのために、明確な将来像を示しえる新しい指導者のもとで、人々がしっかりと心を合わせて復興への槌音を響かせねばならない。そのための政治の責任は重い。




5月18日(水) ゴルフ雑誌


 近頃は、ゴルフ雑誌を買わなくなった。20年ほど前は毎月4〜5誌を買っていたが、このところは「チョイス」「書斎のゴルフ」ぐらいのものである。
 今日、図書館で、たまたま書架に置かれていたゴルフ月刊誌を見つけたので開いてみた。1時間ほどかけて、一応はじめから終りまで目を通してみたのだが、役に立ったなぁと思ったのはただ1ページ…。ルール解説のページで、「バンカーで誤球をした場合は、08年のルール改定により2打罰」を知った。このごろ、ゴルフをしていないから、ルール改定にも疎くなっている。
 以前は「バンカーでの誤球は無罰」だったのにと思って、帰宅してからルールブックを開いてみたところ、「08年から…」と書いてあった。去年買ったルールブックなのに、しっかり読んでないのだ。改定した年には、「改定になった箇所」としてピックアップ記事が載るのだろうけれど、08年の改定では去年版ではもうみんな知っていることだとして、本文中に埋没してしまっている。ルールブックは、毎年、買わないといけないということか(苦笑)。
 それにしても、近頃のゴルフ雑誌のいいかげんなこと。読むに耐えない記事ばかりだ。「ドライバー、あと30ヤード!」…特効薬なんてない、歩いて走ってストレッチすることだろう。「切れるアイアンショット」では、「ドライバーが大型化したからアイアンのダウンブローは払うように打つのが正解」なんて書いてある。そんなの、ダウンブローとは言わないだろう。「1パット圏内に寄せるアプローチ」「1mを外さないパット」なんて、ここ40年間、同じことばかり書いているのだから、ガセネタを並べなくては記事にならないのだろうか。
 ゴルフで読まなきゃない本は、「ベン・ホーガン、モダン・ゴルフ」「陳清波の近代打法」「宮本留吉のグリーンから100ヤード」「柴田敏郎、攻撃のゴルフ」、これで全てだ!

  
5月4日(水) リトルワールド & 明治村


 『リトルワールドは、愛知県犬山市と岐阜県可児市にまたがる緑ゆたかな愛岐丘陵の中に、123万平方メートルの敷地を有し、世界で初めての野外民族博物館として昭和58年3月に開館した。世界各地から集めた4万点の民族資料と22カ国、31施設の野外展示家屋を有し、『生きた博物館』として、世界の生活や文化に手軽に触れ、学ぶことができ、そのすばらしさを味わうことができる』と、パンフレットにある。
 章くん、今まで行ったことがなくて、一度訪れてみたいと思っていた。連休の真っ盛りだから混雑が予想されるので、朝早くに出かけた。
 駐車場に着いたのが、午前7時30分。開園予定は9時。
でも、来場者多数につき、開園は30分ほど早まった。


     園内は花いっぱい →


   向こうに見える三角形は、
  アメリカインディアンの家。


 園内の各展示館では、それぞれの国の民族衣装を貸し出すサービスをしている。


← インドネシアの民族衣装をまとった女の子 
 
 イタリア、アルベロベッロのトゥルッリ →


 南イタリアのプッリャ州のアルベロベッロにあり、キノコのような形のとんがり屋根はトゥルッリという家が集まっている。一つの屋根に平らな石を何層にもつみかさねており、一つの屋根に一つの部屋がある。玄関や廊下がないので、ドアをあけるといきなり部屋に入る構造になっている。とんがり屋根がひしめき合う、まるでおとぎの国のような街である。


 午前8時30分から時間と少し…。各展示場は世界の住居や風俗を紹介していたが、展示物で伝えることが出来るのは限界があるというカンジだ。章くん、ひと通り回って、午後1時20分、リトルワールドを後にして、「明治村」に向かった。
 朝はスイスイと走って来た「尾張パークウエイ(県道49号)」は、リトルワールドに入る車で驚くなかれ延々たる渋滞…。とても今日中には無理なのではないかというほどの、車の量である。
 ところが、明治村に向かう県道16号も、駐車場が近くなるに従って込んできた。それでも、とまってしまうほどの渋滞ではなかったけれど、明治村駐車場は満車で入れない。後ろからの車に追われるようにして、駐車場を素通りしなければならなかった。
 しばらく行ったところでUターンした章くん、今度は北駐車場の入り口で停車して、係のおじさんに「もう4〜5回往復してる。ここで待たせてもらうよ」と言うと、おじさん「停められると渋滞してしまって、近隣の住民の方から抗議が来るんです。」とダメだと言う。「帰る車もあるだろう」「何度も切り替えしていると、それだけで渋滞の原因になるよ」「こう言ってる間に、ほら、出てくる車があるじゃない。2台…、3台…」なんて言っていたら、おじさん「入って、入って」と入れてくれた
← 北入り口から入った章くんは、園内を走るバスに乗って、
正面玄関まで向かい、そこから北口まで、村内を見物しながら
戻ることにした。



 園内は見物人でごった返している。村内の整理係のおじさんが、バスの前を走って、人々をかき分けていた。


 明治5〔1872〕年10月14日、日本で最初の鉄道が、新橋−横浜間で開業。明治天皇のお召し列車が往復運転、全線の正式営業は、翌10月15日からだそうだが、この岡蒸気を見ようと人々が押しかけ、列車の前を人の波をかき分ける先導員が走っていたという。
 今日の明治村村営バスの運行状況は、まさに明治初期の先導員が走る姿を髣髴とさせるものであった。

       京都河原町通五條  聖ヨハネ教会 →


          章くんの好きな建物のひとつだ。


← 幸田露伴邸


 座敷に上がり込んで、露伴が使った机に座ることがでる。
 章くん、物書きという雰囲気をかもしていると思わない…?


 三重県庁、西郷従道邸、森鴎外・夏目漱石邸、品川灯台、東山梨郡役場(現、明治村役場)、横浜福音教会、多摩川鉄橋、宇治山田郵便局、金沢監獄…などを見物し、工部省品川硝子製造所では内部で開かれている喫茶店でケーキをほおばって、午後5時20分、村内の最北部にある帝国ホテル玄関にたどり着いた。


   関東大震災にもびくともしなかった建物だ →


← 帝国ホテルの2階で、コーヒーを飲んだ。
 

 午後5時50分、本日の閉村時間が迫っている。帝国ホテルを出ると、人ごみがようやく閑散として静けさを取り戻した村のたたずまいがあった。 ↓
 
 
 
  明治時代は、我が国が門戸を世界に開いて 欧米の文物と制度を取り入れ、それを同化して近代日本の基盤を築いた時代である。
 明治村に残る建物や品々を訪ねると、新しい日本を築こうとしていた明治の人々の剛健な息吹と、誇り高い文化の香りをかぐことができる。
 章くん、ここ明治村にはもう5〜6回は訪れているが、いつも心躍る新しい発見があり、飽きることがない。午後2時ぐらいに入村した今日は、いかにも時間が足らなかった。近日また、出直してくることにしよう。


 【この旅の詳細は、旅のブログ にも記しています。よろしければご覧ください。】
 



   
5月1日(日) 信濃 「善光寺」


 5月1日、美ヶ原の朝は霧の海…。10m先が見えません。→


 午前10時のバスでホテルを出発、山本小屋で車に乗り換えてビーナスラインを下り、和田峠から142号を北に向かって、長野市を目指しました。


← 遠藤の桜は花盛り


 午後0時30分、「上田菅平IC」から上信越道へと上がり、長野市へ着いたの?、午後1時過ぎ…。


 郊外の駐車場に車を置いて、シャトルバスで市内に向かいました。


 大門前でバスを降り、参道を10分ほど歩いていきました。


            大門交差点前の枝垂れ桜です。 →


 
 参道の両脇は白壁作りの町谷が並び、花が飾られ、緑の多い通りとしてよく整備されていました。
 表通りを一歩入ると、白壁造りのレストランやお蕎麦屋さんが並んでいます。


 仁王門をくぐると仲見世通り。信州名物やみやげ物を売る店が、軒を並べています。    →

 
 
← 本堂


 ご本尊は「一光三尊阿弥陀如来像」。この仏様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。
 『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時に、インドで出現なさったといわれております。その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に百済より贈られた、日本最古の仏像と語られています。


 御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれていて、人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているとか。奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めてきました。(HPより)


 お堂の下の真っ暗な通路を行くと錠前に触れることが出来ます。ご本尊との縁が結ばれるのだとか。章くん、漆黒の闇の中で、しっかりと錠前をつかんできました。


 【この旅の詳細は 旅のブログ にも記しています。よろしければご覧ください。】


  
4月30日(土)〜5月1日(日) 美ヶ原 「王ヶ頭ホテル」


 大型連休もほど近いある日、インターネットを見ていたら、連休の真ん中に、美ヶ原「王ヶ頭ホテル」の空室がありました。雲上の休日もいいかな…と思って、早速、予約を入れました。


 午前1時30分 出発。駒ケ根SAを過ぎて間もなくの5時26分、南アルプスの山々の上に朝日が昇りました。
 どんよりしてあまりまぶしくないのは、この日、中国大陸から飛来した黄砂の影響です。        →


 午前6時、諏訪ICで降りて、国道152号(メルヘン街道)からビーナスラインと走って、白樺湖を目指します。


← 諏訪の里は春真っ盛り…。桜の木々が、いっぱいの花を咲かせていました。


 ビーナスラインは数年前から通行料が無料になりました。冬場は雪に閉ざされて通行止めになりますが、今年は4月23日(土)から一般車の通行が出来るようになっています。


 6時40分、白樺湖畔を通過、ここからビーナスラインは一気に高度を上げて、山岳ドライブモードに入ります。


 午前7時、富士見展望台から南アルプスの眺望です。この展望台からは、南・中央・北アルプスの峰々を一望することが出来ます。

    この写真、富士山が映っているのが分りますか? →


 肉眼では確認できたのですが、写真に撮るとほとんど出なくて、暗くしていくとやっと見えました。


 「美ヶ原美術館」に寄ったりしながら、午後3時、山本小屋へ着きました。ここから上は、一般車両は通行禁止です。
 小屋の裏手の丘に登ってみると、王ヶ頭ホテルが見えました。ホテルまでは、歩いていくか(徒歩1時間)、ホテルの送迎バスに乗るか(10分)…。
 章くん、春の草原を散策しながらホテルに向かう予定でしたが、この日の美ヶ原は気温4度で、半端じゃない強風が吹いています。




← バス道の途中にある美ヶ原のシンボル「美しの塔」


 よく霧が出る高原なので、鐘を打ち鳴らして位置を知らせたといいます。






 ホテルに着いたあと、寒かったのですが、周辺を歩いてみました。


     「王ヶ頭 2034m」の石碑です。 →




← このホテル、特筆すべきはこの貸切露天風呂


 湯船は「木曽ヒノキ」を使用した、1〜2人用の浴槽で、南に向かって窓はない。シャワーブースはガラス戸で仕切られていますから、寒くはありません。空いていればいつでも自由に利用できます。




         部屋の窓からの眺望 →


 食事のあと、「美ヶ原のスライド上映会」や「星空ツアー」が催されました。曇り空だったのですが、このときだけ中天に晴れ間が現れ、北斗七星などを確認することが出来ました。
 標高2000mで見ると、星たちはもっと近くに大きく見えるのかと思っていましたが、ふもとで盛るよりも小さいカンジでした。
 屈性率の関係でしょうか、高いところほど天空は小さく見えることを知りました。


 アルプスの峰々を焦がす夕焼け…、雲海のかなたから昇る朝日…を期待していたのですが、日ごろの行いから考えると、極寒・強風・濃霧というのは当然かも…(苦笑)!
 また、出かけることにしましょう。


 【この旅の詳細は 旅のブログ に載せています。よろしければご覧ください。】

  
5月5日(木) ロイヤル・ウエディング 
 − ウィリアム王子とキャサリン(ケイト)・ミドルトンさん 挙式 −


 4月29日、英国のチャールズ皇太子と故ダイアナ元妃の長男で王位継承順位2位のウィリアム王子(28)とキャサリン(ケイト)・ミドルトンさん(29)が、ロンドンのウェストミンスター寺院で結婚式を挙げられた。新婦は今後は愛称の「ケイト」ではなく、正式名を使い「キャサリン妃」と呼ばれる。



 式は英国国教会のウィリアムズ・カンタベリー大主教によって厳かに行われた。王子は宣誓後、ウェールズ産の金でつくられた指輪をキャサリン妃の左薬指にはめた。一方、キャサリン妃は指輪のお返しはせず、また宣誓の中で「(夫に)従います」という言葉も使わなかった。




 挙式後、王子ご夫妻は馬車でバッキンガム宮殿までパレードを行ない、沿道では約100万人の観衆が英国旗を振りながら歓声を送った。



 




← お二人そろって馬車に乗り込まれ、沿道の観衆に
 にこやかに手を振られ、パレードは進んでいく。

 
 
              ↓ パレード → 



 
 




 
 
 


 「無名戦士の墓」の前を通り過ぎるとき、ウィリアム王子は敬礼され、キャサリン妃は黙礼された。 →


 祖国に殉じた英霊に対する、ごく自然な敬意を表されたのであろうけれど、わが国であれば大問題とされることだろう。そんな日本の現状は、何か間違っているのではないかと思わされた。


← エリザベス女王陛下も、いつものしかめっ面(失礼)で なく、今日は晴れやかなお顔である。

 
 




  やがてパレードはバッキンガム宮殿に到
 着し、衛兵の敬礼を受けながら、門の中に
 入っていった。

      
 このあとお2人はバルコニーに姿を現し、約50万人の観衆が見守る中、曽野期待に応えるべく2度のロイヤルキスを交わされた。
 その後、王子夫妻はエリザベス女王主催の昼食会に出席。2時間後、お2人はチャールズ皇太子所有のアストン・マーチンに乗って宮殿を後にされた。新婚を表すリボンを結んだ車を運転していたのは、ウィリアム王子だ。


 世界から少なくとも8千人の報道関係者が詰めかけ、世界で推定20億人がテレビで見守ったという。
 かくいう僕も、上の写真はすべてテレビ画面をケイタイで撮ったものだ。連休につき出かけていて、アップするのが5月5日になってしまった。(記事は、CNNニュースより抜粋)


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  思いつき、メモ、ぼやき、他のジャンルに入らないことがら、
 誰かに送ったメールの抜粋 … などを記していきます。
  ほとんど根拠のない、気楽な話の羅列ですから、ご用とお急ぎ
 の方は、のぞかないでください(笑)。
 (文中敬称略)


      5月の美ヶ原(長野県)は、まだ冬景色でした。 →


 零捌(08)年  壹月 貳月 参月 肆月 伍月 陸月 質月 捌月 玖月 拾月 拾壹月 拾貳月
 零玖(09)年  壹月 貳月 参月 肆月 伍月 陸月 質月 捌月 玖月 拾月 拾壹月 拾貳月
 壱零(10)年  壹月 貳月 参月 肆月 伍月 陸月 質月 捌月 玖月 拾月 拾壹月 拾貳月
 壱壱(11)年  壹月 貳月 参月 肆月 伍月 陸月 質月 捌月 玖月 拾月 拾壹月 拾貳月

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