9月28日(水) 増税は、議員定数の削減が先
− まずは隗からはじめよ。政治は自らの覚悟を見せるべき −
税収の3分の1が、失政によって膨れ上がった借金(赤字国債)の返済と利子の支払いに負われている国、それが今の日本である。このままいけば、毎年40〜50兆円の赤字が増え続け、あと10年…20年…後には、確実に国家経済の破綻という事態を招くことになる。
それなのに歴代の政府は、今の自分たちの所為ではないと言うつもりか、いっこうに赤字を減らそうとする気配もなく、当然のように赤字国債を次々と発行して、目の前の事柄を片付けていくことに汲々としている。政治に芯がなく、政治とは普遍の原理として何をしなくてはならないかという哲学がないのだ。
今の日本に財政の改革が必要であることは、小学生にでも判る、日本政治の課題である。なのに、赤字解消を言い出す政治家はいなくて、復興に名を借りた赤字国債の発行ばかりが議論されているのはどうしたことか。更に悪質なのは、被災地を助けようという国民の心を人質として(復興のためならば増税やむなしという世論につけこんで)、増税路線を突っ走ろうとしている輩が多いことだ。増税は、国民の目から見ても明らかに無駄が多い政治の改革を行い、その上でお願いをするというのが当然の理だろう。
政治の無駄を省くことの第一歩は、まずは政治家が意欲を見せて、議員定数の削減と俸給カットを行うことだ。国会議員のうち、衆議院議員は現行480人を3分の2の300人程度に、参議院は242人を半分の100人程度に削減することだろう。国会議員の削減は、地方議員定数の削減に直結するから、この効果は絶大だ。
俸給は、国会議員の年収2800万円を1800万円程度にし、政務調査費(月額)100万円は個人への支給を廃止して、ホントに国政遂行に必要な経費ならば政党交付金があるのだから政党に請求することにすればよい。
公務員改革は、現在の日本の最大の政治課題だが、政治家が自ら血を流す決意を示さずして、公務員の首を切れるわけがない。まずは隗より始めよ…、議員定数の半減を実現させてこそ、国政改革はみんなの納得を得られるものになり、国民に応分の負担をお願いすることも出来ることになる。
9月27日(火) 東電は倒産させるべき
許認可事業であることを盾にして、多くの天下りを受け入れて電気料金を操り(電気料金は費用に対して定率の利益を上乗せして決定される。費用を多くすれば利益も増え、何よりも赤字になることはない)、経済ヒエラルヒーの頂点に君臨し(財界のトップは電力会社の会長・社長がほとんどである)、群を抜いて高い人件費(給与・企業年金など)を計上している東電(他の電力会社もそうだけど)は、中央官庁以上の利益独占型官僚体質企業である。
例えば、送発電分離は電力業界改革の第一歩だけれど、送電線は東電を初めとする電力9社の独占体制となっていて、9社以外のところが発電して余剰電力を売ろうとしても送電線を使わせないため、送電できないというのが現状である。送電線を国が買い上げて、国家の所有とすればよい。その上で、東西日本の電圧を統一させれば、国民は安いところから電力を買うことが出来る。企業にとっても電気代の軽減となるし、何よりも電力会社が競合して、より安く効率的に電気を供給しようと企業努力するようになる。
今回の福島原発事故は、この未曾有の大事故を日本電力業界改革の、災いを転じて福となす契機となりうる。即ち、東電は倒産させるべきである。そして、送発電の分離、東西電圧の統一を実現し、電力業界の近代化を実現するべきである。
間違ってはならないのは、いったん倒産させて、民間企業として再スタートさせるべきだといっているのであって、国有化して政府出資などといった、国民にツケを回すような選択をしろと言うのではない。原発事故の保障は現有の東電資産を売却して一部に充て、将来の電気事業から支払い続けていけばよい。東電の倒産による株主や銀行の損失は、今まで儲けてきたことへの責任を取ることとし、経営不安を生じる銀行があればこちらに公的資金を投入することだ。
東電がなくなっても、電気はとまらない、停電にはならない。原発事故は、東電だけでなく政府にも責任がある。事故の補償は、政府が責任を持って処理させていくとすれば、むしろ被災者の安心を得ることが出来るのではないか。東電解体によって日本の電力業界を改革すること、それこそ大震災を将来のために生かす大英断と評価されることであろう。
9月25日(日) 不気味な世界経済
ギリシャの金融危機に端を発したヨーロッパの経済不安が拡大の一途をたどっている。ひとつにまとまって対策を打ち出せないEUに、効果的な対策は期待できない。世界経済の牽引役であったアメリカも、大幅な赤字を抱えて、この事態を打開する力はない。比較的好調なロシアや中国は、成果経済の安定のために果たすべき役割など、彼らの辞書には載っていないことだろうし、また、ホントのところ彼らの経済力では、現今の問題を解決することなどできはしない。
日本は…、もはや忘れ去られた存在である。国民一人当たりの所得ランキングは、2000年に世界の3位であった日本は、2010年には17位と30年前の水準に戻ってしまった。経済成長率は世界の119位、アジアの高収益企業50社ランキング(米経済誌フォーブス(アジア版))では、中国企業がその半数を占める中で日本企業はついに0社になってしまった。三流政治が作った借金の返済に国民の税金の3割を使っているし、かといって一向に国政改革をしようともしていない。このまま行けば、国家財政の破綻は必至であり、日本発の世界恐慌の引き金にもなりかねないというのに…。
先進国の国家経済の破綻…、IMFの資金不足…、そして世界大恐慌…。国際情勢は、1929年当時の状況とかなり似た様相を呈していると感じるのだが…。
9月22日(木) 古賀茂明氏 通産省へ辞表を提出
− 民主党&枝野幸男新経産相に、国政改革へ意欲なし −
古賀茂明氏が辞表を提出した。古賀氏は、2007年当時の渡辺喜美大臣(現・みんなの党党首)が取り組んだ公務員改革に際して、内閣官房に設置された国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任し、「年功序列人事の廃止」「天下り規制の強化」「事務次官廃止」など急進的な公務員制度改革に取り組んできたが、2009年12月、唐突に内閣事務官の任を解かれ、経済産業省に戻ったところ、それ以降は仮置きの部署である「経済産業省大臣官房付」に長期間留め置かれる異例の人事措置に甘んじてきた。
再三の辞職勧告や出向にも、省内に留まっての改革に意欲を燃やしてきた同氏であったが、鉢呂前経産相のあとを継いだ枝野新経産相の、「古賀氏の人事については、従来の経産大臣および経産省の判断を踏襲する」との発表を受けて、改革派の同氏が腕を振るう場所は民主党政権下の経産省にはないと判断しての辞表提出である。
(以下、「日本は今219」へ)
9月21日(水) 台風15号
台風15号は、我が津市を暴風雨県内に含みながら、正午ごろ紀伊半島の南を通過し、午後2時ごろ、浜松市付近に上陸した。風速25m以上の暴風域を維持したまま、首都圏では帰宅時の足元をすくい、東日本大震災の被災地では仮設住宅に浸水するなど、各地に大きな爪あとを残して日本列島を縦断していった。
午前11時、安濃川が増水したため、付近下流地域に「避難勧告」が発令された。章くんのケイタイへも津市災害対策本部からの緊急メールが届き、市の広報車がマイクで避難を呼びかけながら巡回していた。
でも、雨は断続的に降り続いているが、恐ろしいほどの振り方でもなく、前の排水溝の水位も中ほどにしか上がっていない。
轟音を立てて降り続く、しのつくような雨の時には、テレビの陰やソファーでじっと息を潜めて雨の様子を窺っている我が家のネコくんたちも、今日は「ニャァ〜(エサくれぇ)」とやかましい。いつも台風時には「この家、倒れない?」と騒ぐ母上も、台風よりも猫の世話に忙しい。
台風の最中に避難するよりも、水が来たら

2階へ上がったほうが安全だから…といい置いて、章くん、近所のクロネコヤマトに荷物を出しに行った。と、『避難勧告発令中につき、事務所を閉鎖します』と張り紙がしてあり、閉まっている。仕方ないので章くん、市内を視察することにして、安濃川の堤防を走ってみた。
安濃川。いつもは底が見えるぐらいの流れなのに、すっごい水の量…。中州や岸の草木も見えず、茶色の水が轟々と流れていた。→
次に「みなとまち港」に行くと、海は拍子抜けするほど波がなく、砂浜に白波が砕けている程度だ。
← しかし、岩田川の河口は、ここも13時に「避難勧告」が発令されただけあって、見たことのないような水の量だった。
あと1.5m…!
午後16時20分に岩田川、17時30分に安濃川の水位が低下したと、「避難勧告」が解除された。
でも、我が家の近所では、誰も避難した人はいなかった。避難場所の中学校には5〜6台の車が止まっていただろうか。
まぁ、転ばぬ先の杖なのだろうけれど、この程度で出される「避難勧告」には、誰も従わないと思う。万が一、水が出れば、行政は避難されることになるのだろうが、だからといって頻発される「避難勧告」には、いざというときの実効はないということだ!
危険水位に達したら、マニュアル通りに「避難勧告」を出すというのでなく、それまでとその後の雨の様子、降った地域、予想される増水の程度などを判断しての「避難勧告」にするべきだろう。今のような「避難勧告」を繰り返していたら、誰もネコも避難なんてしない。本当に避難が必要なときに、手遅れになってしまうのではないかと、それが心配だ。
9月20日(火) 割烹「やまに」
− 秋二の思い出 −
夕食に、割烹料理屋「やまに」に出かけた。我が盟友上田秋二が残した津市羽所町の銘店である。
秋二が今年の春、急逝してからのち、奥さんの美紀ちゃんを中心に、娘さんとその婿君が力を合わせて切り盛りしていると聞いている。
章くん、秋二が亡くなってから、店には2度ほど訪れたのだが、まだ弔問は果たせていない。美紀ちゃんや娘さんたちに、個人的な話をするのがつらいのである。
秋二とは、ゴルフが取りもってくれた縁であった。鈴鹿カントリーのメンバーで、年齢も1歳しか離れていないこともあり、何よりもお互いゴルフ好きだったので、しょっちゅう一緒にラウンドしていた。
秋二は無類のニギリ好き! 警察署長ともニギッて回ると言われたほどの強者で、コンペなどでの彼のスコアカードは、ニギリ相手とのハンディや勝ち負けのメモで真っ黒であった。
章くんから初めのころはハンディを5つ6つ出しての対戦だったが、章くんがラウンドから遠ざかると、見る見る間に追いつかれてしまった。彼はゴルフに精進し、それだけのラウンド数をこなしていたということである。
章くんがゴルフから遠ざからざるを得なかった最大の理由は、年間180日ほども出向しなければならないライオンズのクラブ幹事と、さらに続いた地区役員就任であったが、その際にも秋二にはたいへん世話になった。

多忙な幹事の日々にも、秋二はいつも章くんの味方で居てくれた。章くんが組んだ執行部にも参加してくれて、細かく面倒な縁の下の仕事をいつも気持ちよくこつこつとこなしてくれた。
続いて今度は地区の役員を仰せつかるようになって、章くん、ゴルフのラウンドに当てていた日数はそのままライオンズの業務に当てなければならなくなった。秋二のゴルフのお誘いも5回に4回は断らなくてはならないようになり、章くんのスコアは見る見る低下の一途をたどった。
それでも章くん、無理していろいろなゴルフの大会にはできるだけ出場していたのだが、中部社会人ゴルフ選手権で『90』のスコア…。「お前も90を叩くようになったか」と言われて、暫く謹慎すべくクラブを持たずに居た。
4〜5年そうこうしているうちに、秋二の「肝硬変」が悪化した。ゴルフができなくなった後も、1ヶ月に1度ぐらいは、秋二が店を終えてから、夜に喫茶店で会ったりしていた。酒で肝臓を壊した男が、チョコレートパフェを頼んで、美味そうにつついていたのが微笑ましかった。
秋二の奥さんの美紀ちゃんは土筆流小唄の師範…。秋二も名取で、章くんとは会派は違うけれども同門の士である。ゴルフのこと、小唄のこと、花柳界のこと、三重県政界のこと(秋二の店は三重県政財界のサロンである)…、いつも話は尽きないままに、「病人やから、早くに寝ないと」と10時を過ぎるころに帰っていった。
去年の暮れに店を訪れたとき、その痩せ様にちょっと驚いたのだが、「寒いうちはゴルフもあかんと、医者に止められとるんさ」と言うので、「また、暖かくなったら…」と言い合った。今年の4月、やっぱり店先で、「ちょっとまだ寒い日があるので…。5月になったら是非!」と言葉を交わしたのが、最後であった。
2人でやりたいことが、まだまだいっぱいあったのに…。まぁ、いつか再開する日が来ることを信じて、そのときの楽しみとしよう。
穏やかで、誰からの好かれる好漢であった。あの世でも誰にも大切にされ、誰彼の区別なくニギッてゴルフをしていることだろう。ひょっとすると、「あの世カントリークラブ」のクラチャンになっているかもしれない。秋二は気持ちが優しいから、クラチャンはちょっと無理か…。
9月19日(月・敬老の日) タイ料理「ラーイタイ」
(鈴鹿)
インターネットで、タイ料理店を探して、鈴鹿市平田町に見つけたので、前が見えないくらいの土砂降りの雨の中を走って、行ってきた。
右手の入り口から入る →
明るい玄関を入ると、45歳くらいのタイ人のおじさんとおばさんがいて、客はカウンターに70歳ぐらいのおじさんが一人ビールを飲んでいた。
← トム・ヤン・クン
プ・パッポン・カリー
定番料理で、意外性にかけるが、味はタイで食べたものに劣らない。
欲を言えば、日本風にアレンジされているのか、辛さや風味にどこかパンチが足らない感じがしたかな。
← バッタイ(タイ風やきそば)
8時過ぎ、3組ほどの客が次々と入ってきた。いずれもタイの女の子を連れた日本人のおじ様たち…。バンコクの繁華街タニヤの風景と同じじゃないか(苦笑)。
1人前がかなり多い。食べきれずに、折りに入れてもらって帰ってきた。
9月12日(月) 中秋の名月
今日は陰暦8月15日、この夜の月を「
中秋の名月(ちゅうしゅ

うのめいげつ)」と呼ぶ。
「仲秋の名月」という表現もあるが、「仲秋」とは、秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分した場合の呼称であって、旧暦8月全体を指す。だから、仲秋の名月は「陰暦8月の月すべて」を指し、8月15日(十五夜)の月に限定されなくなる。
対して「中秋」とは「秋の中日」=陰暦8月15日のみを指すわけで、今夜の月がそれである。
→
午後からよく晴れて、今夜は絶好のお月見日和…。夕方、東の空に大きなまん丸の月が上った。どこで今夜の月を見ようかと、いろいろと考えたのだが、先ずは池のほとりで水面に映る水月を愛でるのも一興かと、いつもゴルフの練習に行くときに通る「風早池」の展望縁台に行ってみた。
← 午後6時30分。コバルトブルーの空が紺色を増し、月影がさやかに輝きだした。
水面に映る月がかすかに揺れているのは、肌に感じるほどでもない風が、湖面を渡っているのだろう。
そこここに、虫の声が聞こえる。
コンビニに寄っておにぎりとお茶、それにお月見だから団子…と言っても、置いてあったのは肉まんだったけれど、それを1個買って、「青山高原」に登った。
途中、暗くなったドライブウエイで、シカの親子に何度か出くわしながら、三角点を目指す。
7時15分、三角点駐車場へ到着。車から降りると、半袖では肌寒い。
すっかり暗くなった空に、煌々たる満月が輝いていた。→
若い一組の男女が先客にいた。暗闇の山頂だから、どんな輩が来たのだろうと気にかけているかなと思い、「こんばんわ」と務めて気楽に声をかけた。こちらを窺っていたのだろう、折り返して安心したような女の子の、明るい「こんばんわ」の声…。一瞬遅れて、男の子のちょっと低い「こんばんわ」の声が返ってきた。
← 三角点展望台からの見晴らし。
足元に、津〜松阪に続く光の帯が
広がっていた。
(光量を明るく補正しています)
三角点のベンチに座って、満場の虫の音に囲まれながら、おにぎりと肉まんを平らげた。
さすがにちょっと寒くて、温かいお茶を買ってきたらよかったなぁと思った。
少しガスってきて、お月様に笠がかかったり →
帰りは美里の長野へ降りて帰ろうと思ったところ、先日の台風のせいか、北へ向かう道は、伊賀へも久居への道も通行止めだった。
もと来た道を戻り、国道165号から榊原を抜けて、午後9時30分ごろ津に戻った。
『
月見れば 千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど』 大江千里 古今
秋は、私一人に来ているわけではないけれど…。
9月6日(火) トーシン・トーナメント イン レイクウッド 練習日観戦
8・9・10・11日の4日間、トーシン・レイクウッドGC(7010ヤード、パー72)で、国内男子ツアーの第14戦「TOSHIN GOLF TOURNAMENT
IN LakeWood(賞金総額7000万円、優勝1400万円)」が行われている。ケイチンを誘って、6日、練習日の模様を見に行った。
練習日は、入場料は要らない。それに、トーナメントの開催日はゴルフ場の駐車場をギャラリーは使えず、近くの指定駐車場からシャトルバスで会場に入るのだが、この日は規制がなく、クラブハウス前の駐車場まで車で入ることができる。
レイクウッドGCは駐車場のすぐ横が練習場なので、車を降りたらすぐに選手たちが打っている光景が目に飛び込んできた。ツアープロたちの打球の迫力は、まず日頃

はお目にかかることのできない凄さである。ほとんどは名前も知らない(でも、この試合に出場するのだから、いちおうシードの)選手たちが打つボールは、アイアンのそれは高く高く舞い上がり、ドライバーのそれは300ヤードの彼方に消えていく。ツアー見学は初めてのケイチンは、「凄いですね、凄いですね」と言うばかりで、次の言葉が出てこない。
ドライビングレンジでの練習風景 →
クラブハウスを抜けて練習グリーンに向かうと、鈴木 亨、細川和彦、
川岸良兼、
井戸木鴻樹、丸山大輔ら、名前を知っているプロの顔も見えた。
1番のティグラウンドに向かい、練習ラウンドに出て行くプロたちのティショットを見た。バックティから、フロントから打つ僕たちと同じところへ、糸を引くようなボールを打っていく。
← 仲のよいグループそれぞれにパーティを組んで
練習ラウンドにスタートしていく。
ティグラウンドの後ろに立てられているテントの中の椅子に座っていたら、「大会役員以外はご遠慮ください」と叱られてしまった。その役員さんに「石川 遼くんは
来ていないの?」と聞くと、「体調を崩したとかで、昨日キャンセルになりまして…」と急に低姿勢になった。「遼くんが来るということでチケットを買ったキャラリーはたまったもんじゃないね」と追い討ちをかけると、「確実に参加すると言っていたのですが、急に体調が…とのことで」と苦しい言い訳…。それ以上追い詰めるのも気の毒で、「まぁ、体調を崩したのでは仕方ないですね」と、章くん、追及の手を緩めた。(笑)
9月3日(土) 台風12号
和歌山・奈良・三重県を中心に、100人を越える死者・行方不明者を出した台風12号が津市に最接近した3日、贄崎海岸へ荒れ狂う海の様子を見に行ってきました。
白波が砕ける「なぎさまち港」 →
いつもは穏やかな伊勢湾の内海も、吹き付ける強風に煽られて、なぎさ町港の岸壁に白波を打ちつけ、波しぶきが飛

び散っていました。
まさか今日は営業しているゴルフ練習場はないだろうと思いつつ、近場の練習場を回っていくと、やっていました…「伊勢温泉ゴルフ練習場」、ネットを降ろしながら、営業していました。
来ている客も立派! 1・2階合わせて、10名ほどが打っていました。
ここは西向きの練習場ですから、東風の台風には、雨は降り込まないのです。むしろ、強いフォローにボールはよく飛ぶ(笑)。
60球ほど打ってから、避難勧告の出た白山町へ様子を見に行きました。マツダのゴルフ練習場の前を通ると、電灯が点いていて、営業しているみたい。ここは東向きなのに、振り込まないのでしょうか。
雲出川は水かさが増していて、国道165号線が並行して走る一志町大仰のあたりは、もう少しで道路に溢れそう…。一帯は、大井小学校への避難勧告が発令中でした。
白山ビレッジGCに入っていくと、今日は臨時休業でした。でも、グリーンやフェアウエイは水もついていなくて、むしろみずみずしさを増したようないでたちでした。実は、次の4日に予約を入れていたのですが、朝から台風の名残りの大雨…。やむなくキャンセルしました。
大きな被害を出した台風12号でしたが、章くんの周辺では、避難勧告などが発令されたものの、実害は章くんのゴルフがキャンセルになったぐらいで終わりました。
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