11月25日(月) 中共、尖閣諸島に防空識別圏
中共の行なうことは、まことに理不尽なことばかりだ。国際的な定め事や規則は度外視して、自国の利益ばかりを図るごり押しを通そうとしている。
23日、中共は「沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海に防空識別圏を設定した」と宣言した。防空識別圏とは「領空に進入してくる航空機の識別・位置の確認・飛行指示などを行うため、各国がその領空の外側に設定している一定の空域」のことで、防空識別圏内を飛行する際は飛行計画を航空管制機関に提出することが義務づけられており、
止むを得ず事前に提出された飛行計画と異なる飛行を行う場合は航空交通業務機関及び防衛レーダーサイトに通報しなければならない。また、国外への不法渡航もこの境界線で監視されている。
これまで日本の防空識別圏であった空域に、中共が突然に新たな棒気宇識別圏を重ねて設定したことは理不尽な暴挙というしかなく、この空域を飛ぶ飛行機は日本・中国の双方のチェック対象となる。
日本の防空識別圏は1945年にGHQが制定した空域をほぼそのまま使用しており、航空自衛隊の対領空侵犯措置の実施空域に指定している。国際的にも長年にわたり広く認識されてきた防空圏であって、68年もの間、日本が管理してきた地域・空域を、今突然に「我が領土だ」と言う異常さは正当性を欠き、いずれの理解も得られまい。
今日、中共外務省の秦剛報道局長は、この防空識別圏の設定について、「国連憲章など国際慣例に合致しており、目的は中国の国家主権と領土領空の安全を守ることだ」と述べ、正当性を主張しているが、空域でのこのごり押しは、地上での一方的な尖閣・沖縄領有宣言と同じ構図であって、中共の覇権主義を如実に物語る事象である。
沖縄は、1609年の島津藩による琉球侵攻以来、島津藩の統治下にあり、江戸時代を通じて清の姿勢が及んだことはない。明治になって、1879年、明治政府は首里城の明け渡しと廃藩置県を布告。これに対して清は反発したが、1894年(明治27年)の日清戦争で日本が勝利すると、清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めることとなった。
尖閣についても日本政府は「尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に編入した。この編入手続きは国際法で言う先占の法理手順を満たしており、この領域に領有権問題は存在しないという日本政府の主張は国際的に認知されている。
中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載があるし、また、70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していたのである。中華民国の政治的遺産を継承した中共は、当然、中華民国の認識を引き継がねばならない。
さらに中共政府には、72年の日中共同声明第1項を確認することを求める。同声明には、「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」と明記されている。領土,賠償金、戦時事項の処理など一切について意義は持ち出さないということであり、今回の
防空識別圏の設定を含む中国政府の要求は、「不正常な状態」の終了を宣言するこの第1項に反し、日中間の戦後秩序を破壊することになる。
11月20日(水) 江沢民らに逮捕状 その1
- チベットでの「大虐殺」容疑 スペイン -
パリ発時事通信が、『スペインの全国管区裁判所は、19日、中国の江沢民元国家主席(87)、李鵬元首相(85)ら政権幹部経験者5人の逮捕状を出した。1980~90年代にチベットでの「ジェノサイド(大虐殺)」に関与した容疑』と伝えている。
江沢民は、1926年、江蘇省揚州市で日本軍占領下の日本特務機関に協力をしていた江世俊の息子として生まれた。叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま、1939年、日中戦争中に地元匪賊に殺害された。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例である。漢民族の裏切者・背叛者を呼ぶ、いわゆる「
漢奸(かんかん)」の息子という出自を隠すためと考えられている。「漢奸」とは、中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指していて、日中戦争の際には激しい漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された。
当時の『東京朝日新聞』『読売新聞』『東京日日新聞』『ニューヨーク・タイムズ』なども「漢奸狩り」について伝えているが、それによると「戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約 2,000 名に達していて、多くは日本留学生であった。 … 南京攻略戦直前の(1937年(昭和12年)12月初め)南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された」という。
江沢民の激しい反日ポーズは、自らの「漢奸」という出自を隠蔽するための、精一杯の演出であったと思えば納得できないこともないが、その彼の個人的事情が日中両国にもたらした負の遺産は計り知れない。彼もまた、
歴史によって審判されねばならない一人だということだ。
11月20日(水) 江沢民に逮捕状 その2
APF通信などによると、江沢民への逮捕状発行を決定したスペインの全国管区裁判所は、刑事告発した人権団体メンバーにスペイン国籍を持つ亡命チベット人が居り、中国当局が捜査していないことを理由に逮捕状を出したという。
人権団体は刑事告発で、
江沢民らがチベットでの「大虐殺、人道に対する罪、拷問、テロ」に責任があると主張。裁判所は「
当時の政治・軍の高官が関与した疑いがある」との見解を示した。
暴虐の限りを尽くす中共の指導者を糾弾するのに、こんな方法があったのか。しかし、今日の日本の司法ならば政治の干渉を排除できずに、「わが国の司法判断は国外へは及ばない」とかなんとか言って、逃げの一手だろう。平成22年に起きた中国漁船衝突事件をめぐる菅直人政権の政治決定を思い出す。当時の官房長官仙谷由人が首相の菅直人の意向を踏まえ、逮捕した中国人船長を釈放するよう法務当局に働きかけ、那覇地検は船長を釈放して、官邸は「検察独自の判断だ」と責任を検察に押し付けたのであった。
大津事件の大審院長
児島惟謙(こじまこれかた)にお出まし願うまでもないが、司法は政治にかかわりなく、法規に依って厳然と判断を示さなくてはならない。児島大審院長は、来日したロシアのニコライ皇太子に切りつけて頭部に傷を負わせた警備の津田三蔵巡査を、ロシアを恐れて「大逆罪で死刑に処すべきだ」とする明治政府と世論を退けて、皇太子を死に至らしめたわけではないと謀殺未遂罪を適用し、終身刑が妥当と申し渡した。
菅直人・仙石由人と児島惟謙を比べること自体が、市民運動のパシリと国家観を持った偉人を比べることとなり、全くのナンセンスということなのだろう。戦後教育の中では軽佻浮薄がもてはやされ、学校の学級委員の選挙でも面白いおっちょこちょいが票を集めるので、学級がまとまらないというある小学校教諭の嘆き話を思い出す。そんな戦後社会に育った、よく喋るおっちょこちょい活動家が政権を取ったのが民主党政治であったのだ。
スペイン全国管区裁判所の判断に中共は「内政干渉」と反発を強めていて、APF通信は「
スペイン政府は対中関係で難しい問題を抱えることになりそうだ」と伝えている。が、難しかろうが何だろうが、あるべき正道を断固として貫くのが司法というものである。その司法判断を後ろ盾にして、政治はとのように立ち回るかが政治力・外交力というものだろう。
チベット虐殺の責任者たちに逮捕状が出たことが、チベット騒乱の真相を究明し、世界に知らせる契機となるようにと期待したい。正義を正義とする勢力が、正義を貫く国際社会の実現に向かうことを願いつつ、スペインの今後を見守っていきたい。
11月19日(火) 韓国マンザイ
まずお断りしておくが、ここで言う韓国とは、一人ひとりの韓国人を指しているものではない。先日訪れた韓国で出会った人びとの多くは優しく親切で、気のいい隣人であった。ただ、国家とか政治とかを背負うと、この国は途端に理性を失う。
ある書物に、「昨今の韓国の様相は、ほとんどマンザイの世界である」とあった。言い得て妙というべきで、韓国が「何とかニダ」と言えば言うほど、この世にこれほどの愚か者がいるのかと思えて、初めから終わりまでクスリともさせてくれない近頃の日本の若手芸人よりも、よほど楽しませてくれる。
それにしても、韓国の反日は常軌を逸している。歴史認識の非難、中共への安重根像設置提案、慰安婦問題、アメリカでの慰安婦像設置、竹島占拠、親日者財産の没収法、旭日旗禁止法、盗難仏像の返還拒否、靖国放火犯の引渡し拒否、…などなど、韓国では裁判所までが奇妙な判決を確定させて、国際社会では顰蹙を買うことばかり。しかも、韓国の反日は歴史的事実に基づくものなく、そのほとんどが虚偽か捏造が前提なのである。
韓国内外の反日活動家、韓国人の国連事務総長、韓国の政治家たち、そして韓国大統領も、反日のためならば自国の国益も対面もかなぐり捨てている。反日のためならば、またもや中国王朝の属国になろうとすることも意に介さないようである。
韓国が立ち行くためには、一致するはずもない歴史認識の是非を越えて、日本と手を取り合うことが国是であろう。またそうすることが、韓国の…東アジアの…そして世界の安定のための必要条件であるはずだ。李承晩時代の怨恨を越えて日韓基本条約を締結し、日本の援助を受けて「漢江の奇蹟」と称される産業発展を成し遂げた朴正煕大統領の娘であるパク・クネゲン大統領には、身に染みている反日教育を韓国を背負う大統領という大観的見地から、韓国の将来のために舵を切り直すことを求めたい。
11月18日(月) 「東京だよ、おっ母さん」
- NHK 島倉千代子追悼リサイタル 「涙のなかに笑顔がいっぱい」-

久しぶりに、歌を聞いて泣いてしまった。NHKが7日(日)に「島倉千代子追悼リサイタル」と題して、去る8日75歳で亡くなった島倉千代子の特集番組を放映した。当日はゴルフのコンペだったので録画しておいたものを、ちょっと体調が悪くて一日中家に居た今日、見た。
← 番組の中で流れた「50周年記念リサイタル(2004年)」で
「東京だよ おっ母さん」を歌う島倉千代子
島倉千代子は1938年(昭13)生まれ。54年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。同社と専属契約を結び、 55年にデビューした。デビュー曲「この世の花」が大ヒットし、同名の映画も製作されて、 一躍人気歌手となった。
57年、「東京だよ おっ母さん」がまたまた大ヒット。映画化もされ、自ら主演で銀幕に登場し、この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場した。
デビュー曲の「この世の花」(200万枚)に次ぐ大ヒット曲「東京だよ おっ母さん」(150万枚)をNHKのこの追悼番組で歌うかどうか、僕は興味を持って見ていた。
NHK紅白歌合戦に連続30回、後年の「人生いろいろ」の大ヒット(130万枚)で復活して、通算35回の出場を誇る島倉千代子にあって、この「東京だよ おっ母さん」は紅白のステージで1回も歌っていない。
2番の「やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん あれがあれが九段坂 会ったら泣くでしょ 兄さんも」という、靖国に祀られている英霊を描いた歌詞が、NHKの反戦・反日姿勢に敬遠されたという記事をどこかで読んだ覚えがある
さすがに今日の追悼番組ではこの曲を外すわけにはいかなかったようで、番組の中ごろ、阿部渉アナウンサーが「母と娘の強い絆を歌ったこの歌が大ヒットする一方、島倉さんの実生活は母子の関係が疎遠になっていくという悲しい道をたどり…」と語るナレーションに続き、島倉の思い出語りが流れ、画面は「50周年記念リサイタル」での歌声が始まった。
阿部渉が語った「島倉さんの実生活は…」という件(くだり)は、家族の強い反対を振り切って、阪神タイガースの4番藤本勝巳と結婚したが、すれ違いの多い生活により別居を経てわずか4年で離婚…という不幸に始まる、島倉の波乱の人生のことである。家族の元に戻るも反対を押し切って結婚したために門前払いされ、自分だけの戸籍を作ったこと。信頼する知人に裏切られ、莫大な借金を負わされたこと。そして離婚から4年、和解できないまま、母ナカが他界。幼少のころの事故がもとで左手がほとんど動かない(後に不自由ながらも動かすことができるようになった)千代子を励まし支えてくれた母との、悲しい別れであった。
そんな島倉千代子が歌う「東京だよ おっ母さん」は、歌が上手いかとか音程が確かかなどといったものを超えた、歌が聞くものに与える「人の思い」を心に届けてくれた。繰り返して、何度も聞き直してみたが、何度聞いてもさまざまな思いが去来して、にじむ涙を止めることができなかった。
昭和32年に発表されたこの歌は、どこかにまだ戦後を残していた日本が、復興に向けて大きな歩みを踏み出そうとした時代の人びとの心を捉えて、大ヒットを記録する。島倉千代子の解り合えない母への慕情とともに、時代が変わろうとも、日本人の心に受け継がれる心根の秘めたる優しさが、全編に漂う歌であった。そんな歌を歌う歌手に巡り会えた僕たちは幸せなのだと思う。
ありがとう、お千代さん。やすらかに…。
11月6日(水) クレアドール(久居)
ディナー定食が値打ちと聞いて、久居市井戸山の「クレアドール」に行ってきた。
8つほどのテーブル席の2つに家族連れ、あとの2つに女性の2人連れ。小さい子どもから、そのおじいさん・おばあさんまで、幅広い客に人気の店らしい。
もともと、手作りパンの専門店だったとかで、焼きたてパンが棚に並
べられていて食べ放題…。パン好きの章くんには、ありがたい店だ。→
離婚しているが、彼の離婚はスキャンダルだ。参院選挙中は隠していて、選挙のあとに「実は離婚していました」と公表している。しかも、別の女性に子どもを産ませていて、参院選開票日の7月21日が誕生日だという。離婚も子どもの誕生も、彼の活動を損なうものではないけれど、身の処し方を